
若者のお茶離れ、外国産の茶葉の台頭…台湾で落ち込む烏龍茶需要を救う"紅烏龍茶"とは――不思議な名前を持つ「女兒不懂茶」創業者(31)に話を聞く
:全詳文報導

台湾東部・台東県の鹿野(ルーイエ)郷。一面に田畑が広がるこの地に、瀟洒な一軒家が建っている。2008年に開発された「紅(ホン)烏龍茶」を主力商品とする「女兒不懂茶(ニューアルブードンチャー)」(Daughter’s Tea)の本店だ。
筆者がこのブランドと出会ったのは、台北市内のセレクトショップ。売り場の中央に並べられていたデザイン性の高いパッケージと、独特なブランド名に惹かれ、世界100カ国以上の現地在住日本人ライターたちの集まり「海外書き人クラブ」の会員である筆者が、創業者を訪ねた。
紅烏龍茶とはいったい何か
「紅烏龍茶」は2008年に発表された新しい烏龍茶だ。紅茶の製造方法を取り入れているため、この名がつけられている。
烏龍茶は、茶葉の摘採後、茶葉を直射日光に当ててしおれさせる日干萎凋(いちょう)や、室内に茶葉を移して行う室内萎凋、発酵を促進させる回転発酵などの工程を経てできあがる。その後、茶葉を釜で炒って乾燥させ、揉捻(じゅうねん)という揉み込み作業を行う。
一方、紅烏龍茶は紅茶と同様、茶葉の揉み込みを乾燥より先に行う。
烏龍茶は半発酵茶に分類され、発酵度は通常10~80%程度。対して、紅烏龍茶の発酵度は80~90%程度で、烏龍茶の中で最も高い。このため全発酵茶(発酵度100%)である紅茶によく似た、琥珀色の水色(すいしょく)と、風味を持ち合わせている。
紅茶から烏龍茶に転向するも…
紅烏龍茶が誕生したのは2008年だ。
鹿野郷でお茶の生産が始まったのは、1960年代。台湾で本格的な製茶事業が始まったのが19世紀とされているので、鹿野郷は茶産地としては後発組といえる。
当初、鹿野郷ではアッサム種を使って紅茶を作っていたが、輸入茶葉との価格競争に敗れ、烏龍茶生産に移行。ところが、1990年代に入ると標高1000メートル以上の山地で採れた「高山烏龍茶」が台湾内外で人気を博し、台湾茶の象徴的存在となっていく。標高わずか350メートルである鹿野郷のお茶の人気は廃れていった。
鹿野郷は台湾南部にあり、熱帯気候に属する。おまけに標高が低いので茶葉の発酵が進みやすい。この特徴を生かした製法で作られているのが、紅烏龍茶である。
筆者が今回訪ねた女兒不懂茶も、紅烏龍茶を主力商品としている。鹿野郷では化学肥料や農薬を使用している農家もいるが、それらを一切使わない自然農法にこだわっている。
ブランド名である女兒不懂茶を日本語に訳すと、「娘はお茶のことがわからない」となる。
お茶屋なのに、はたしてそれでいいのだろうか――。そんな思いで本店を訪ねると、穏やかな笑みをたたえた女性が出迎えてくれた。彼女こそ「お茶のことがわからない娘」であり、共同経営者でもある林廷瑀(リン・ティンユー)氏だ。
廷瑀氏にブランド名の由来を聞いた。
「お茶の師匠でもある父の『お茶に対して謙虚でいなさい』という教えからです。茶業ひとすじ40年の父でさえも、お茶からはいまだ学ぶことばかりだ、と。一生お茶から学び続けるという想いを、『娘はお茶のことがわからない』というブランド名に込めました」
廷瑀氏は2016年、彰化県にある大学の造形芸術学部を卒業した。卒業後は大学で培ったデザインの知識を生かし、台北でネットコマースの会社に就職。2018年に故郷である台東県鹿野郷に戻り、2019年に自身のブランド女兒不懂茶を立ち上げる。
茶葉を栽培しているのは、現在31歳の廷瑀氏と、廷瑀氏の父である林潮意(リン・チャオイー)氏。潮意氏はかつて台湾西部の新竹県で茶園を営んでおり、28歳で日本の農林水産大臣賞に相当する「神農賞」を受賞したほどの“匠”だ。
ところが、台湾最長の高速公路である国道3号の建設工事に伴い、茶園が用地買収の対象となってしまう。
茶園をすべて失うことになった潮意氏は、「もう一度自分が理想とする茶を作りたい」と一念発起。理想とする環境を求めて台湾各地を巡り、1989年、鹿野に土地を購入した。以来、ここで完全無農薬のお茶を栽培する。
2018年に故郷に戻り、父に師事した廷瑀氏は、25歳の若さで「台東製茶コンテスト」の最優秀賞を獲得。2022年には台湾全土を対象とした「第1回茶道藝美學薪傳賞」でも最優秀賞を獲得した。
蜂蜜のような甘い香りの烏龍茶
取材に先立ち、廷瑀氏が淹れた「蜜香有機紅烏龍」を飲んでみる。
蜜香とは、ウンカという小さな虫に噛まれた茶葉がファイトアレキシンという物質を作り出すことで醸し出される、蜂蜜のような甘い香りのことを指す。
「熟したマスカットのような香り」と表現されることもあり、紅茶業界では「マスカテルフレーバー」といわれている。この香りをまとっている紅茶としてよく知られているのがダージリンのセカンドフラッシュだ。
紅茶と同様、台湾茶にも、フルーツや花や香料などで香りをつけたフレーバーティーが存在する。香りも見た目も華やかになるため、特に若者世代に受け入れられている。
「同世代も茶に親しんでもらいたい」という目的を達成するためには、フレーバーティーを開発するというやり方もあっただろう。
しかし、お茶好きのなかには、「フレーバーティーは邪道だ」と言って、敬遠している人たちがいるのも事実だ。廷瑀氏は、「同世代にもお茶に親しんでもらいたい」という想いを、茶葉と技術で実現する道を選んだ。
紅烏龍茶の製茶工程に欠かせない発酵や焙煎の方法を工夫することで、香料を一切使用せずに果物のような香りを引き出すことにこだわった。


「ていねいな暮らし」の1つに
女兒不懂茶は人気食雑貨セレクトショップ「神農生活」でも販売されている。台湾茶業界の就労人口は9万人で、お茶専門店の数は無数にあるが、現在神農生活が取り扱っている台湾茶は、10ブランド程度にすぎない。
神農生活の范姜群季(ファンジアン・チュンジー)CEOと黄琦詠(ホワン・チーヨン)オペレーションディレクターによると、同ショップは若い人がコンビニなどで適当に食事をすませるのではなく、「ていねいな暮らし」の練習をしてもらいたいと考え、立ち上げたという。
思わず「好喝(ハオハー)……」(おいしい、の意)とつぶやいたら、廷瑀氏がうれしそうにほほ笑んだ。
「ありがとうございます。残念なことに、最近の台湾ではお茶を飲む若い人が減っています。私が故郷に戻ってきたのは、『このままでは故郷の風景がなくなってしまう』と思ったからです」
台湾茶の衰退に直面した「娘」の危機感
実は、若い世代では、「お茶は古くてダサい」と、コーヒーを好む人が増えている。
「茶園は私にとって故郷の原風景。私たちの世代がなんとかしないと、このままでは茶園がなくなってしまう」。廷瑀氏が故郷に戻って家業を継ぐことを決めたのは、こんな危機感からだった。
台湾茶は1980年代に世界各地でブームを巻き起こした。ところが、2000年代に入ると状況が変わり始める。
台湾は2001年11月のWTO(世界貿易機関)ドーハ閣僚会議で加盟が承認され、翌年1月1日にWTOに加盟した。すると、それまで25%だった茶葉の関税は、段階的に17%にまで引き下げられた。これにより、ベトナムなどから安価な茶葉が大量に流入するようになった。
いまや台湾で消費される茶葉のうち、8割は輸入茶葉だ。
また台湾政府は1999年の「921大地震」以降、噛みタバコの檳榔(びんろう)からコーヒーへの作付け転換を推奨しはじめた。この転換は人々の健康を守り、かつ土砂災害対策もできる一石二鳥の政策だった。こうして台湾では徐々にコーヒー栽培が盛んになっていく。
外国産の茶葉が増え、コーヒーが生活に浸透した結果、若者の茶離れが進んだ。台湾の茶栽培面積は1998年の20万ヘクタールから、2023年には12万ヘクタールにまで減少した。
故郷に戻った廷瑀氏は、同世代にもお茶に親しんでもらいたいとの思いで、1年の歳月をかけて味とパッケージデザインを開発した。
「現代人はストレスを感じることが多い。お茶からフルーツのような香りがふわっと漂ってきたら、心も体もリラックスできるのではないか。お茶の苦味や酸味を引き出したら、コーヒーが好きな人にも受け入れられるのではないか……。そう考えて、たくさんの味を開発してきました」(廷瑀氏)
主要顧客は30~50代の女性で、神農生活が当初想定していたよりも上の世代だ。だが、創業当初のコンセプトは今も変わらず、店内には「ていねいな暮らし」が実現できそうな品々が取り揃えられている。
女兒不懂茶はその中のブランドの1つとして、2023年3月から神農生活で販売されている。
范姜群季氏は、「最近は農業分野で、女兒不懂茶の廷瑀氏のような若い世代の挑戦が目立っています。こだわりを持つ生産者や若い世代の発想は、これからの市場の発展にとって重要な存在だと思います」と話す。
女兒不懂茶について率直な意見を聞くと、黄琦詠氏がこう話してくれた。
「茶農家として40年の経験を持つ林潮意氏と娘の林廷瑀氏が、親子で頑張っているブランドですね。彼らの茶園は台東の鹿野郷にある上将茶園です。この茶園は、海洋山脈と中央山脈に囲まれた肥沃な平原にあります。そこで真摯に、自然農法にこだわり抜いている。とにかく良いものを作ろうと一生懸命です」

世界に「紅烏龍茶」を届けたい
廷瑀氏は語る。「台湾の多くの人たちに、おだやかな心でお茶を楽しむ時間を届けたい。できれば世界にも」。故郷の鹿野から台湾全土へ、そして世界へ――。廷瑀氏の挑戦はまだまだ続く。

著者フォローすると、市川 美奈子さんの最新記事をメールでお知らせします。